『看脚下』(かんきゃっか)——遠くを見るのをやめたら、日曜の夜が少しだけ軽くなった

日曜の夜。

明日のことだけならまだよかったのに、

気がつけば来月のことも、来年のことも、

そのまま「これから先の人生ぜんぶ」まで、見にいってしまう。

そんな夜って、ありませんか?

このままで、いいんだろうか。

何年かたったとき、ぼくはどこに立っているんだろう。

考えても答えは出ません。

出ないとわかっているのに、目だけが遠くを見ている。

そんなあなたへ。

だいじょうぶ、あなただけじゃないですからね。

『看脚下』という、三文字

禅に『看脚下』(かんきゃっか)という言葉があります。

「足元を看よ」という教えです。

むかし、ある和尚さんが、三人の弟子と夜道を歩いていました。

風がふいて、手にしていた灯りが、ふっと消えてしまう。

まっ暗になった道で、和尚さんが問いかけます。

「さあ、こういうときはどうする」

そのとき、ひとりの弟子が答えた言葉が『看脚下』だった、と伝えられています。

先が見えないなら、足元を看よ。

禅寺の玄関には、いまも同じ意味の札がかかっていて、

まずは自分の脱いだ履きものをそろえなさい、という戒めになっているそうです。

少しかたい言葉ですよね。

ぼくは、もっと素朴に受け取っています。

遠くを照らそうとするから、暗いんです。

足元は、灯りが消えても、ちゃんとそこにある。

ぼくは、まだない未来にくわしかった

かつてのぼくは、遠くを見るのが得意でした。

起業していたころ、三年後の絵ばかり描いていました。

手元の現実より、まだどこにも存在していない未来のほうに、ずっとくわしかったんです。

そのころのぼくは、たぶんこう信じていました。

遠くまで見えている人が、ちゃんとしている人なんだ、と。

だから足元は、見ませんでした。

自分が何時間眠っているか。

今日、何を口に入れたか。

となりにいる人が、どんな顔をしていたか。

ぜんぶ、あとまわしです。

やがてぼくは、アディクションに沈み、部屋から出られなくなりました。

引きこもっていたころ、遠くを見る力は、きれいさっぱりなくなりました。

来週どころか、あしたすら思い描けない。

でも、ふしぎなんです。

遠くが見えなくなったとき、はじめて足元が見えました。

床の木目。

コップに残った水の高さ。

自分の呼吸が、思っていたよりずっと浅いこと。

ある日、なんとなく、脱ぎっぱなしだった靴をそろえてみました。

なにかが解決したわけじゃありません。

状況は、ひとつも動いていない。

それでもその日は、ほんの少しだけ、

「ぼくが過ごした一日」になった気がしたんです。

いま思えば、ぼくの再生は、大きな決意からは始まりませんでした。

足元にある、小さな所作のほうから始まったんです。

「先のことを考えるな」とは言いません

ここで、将来のことを考えるのをやめましょう、と言いたいわけではありません。

遠くを見る力は、あなたが長い時間をかけて育ててきたものです。

その力があったから、いろんな場面を先回りして、どうにかしてこられた。

捨てなくていいんです。

むしろ、あなたのやさしさそのものだと思っています。

ただ、暗い夜に遠くを見ようとすると、

見えないところを、想像で埋めることになります。

そして人は、暗いところを暗いままには埋めません。

たいてい、実物より一段濃く塗ってしまう。

日曜の夜に見える未来は、そういう塗り方をされた未来です。

だから輪郭がぼやけて、やけに大きい。

遠くを見る目と、足元を看る目

ぼくは、この二つは別の目だと思っています。

遠くを見る目は、地図を読む目です。

どっちの方向に行きたいかを決めるときに使う。

足元を看る目は、次の一歩を置く場所を決める目です。

転ばないように、いま踏み出すために使う。

どちらも要ります。

ただ、同時には使えないんですよね。

明るい昼間なら、地図を広げるのもいい。

けれど灯りが消えている夜に地図を広げても、字が読めないだけです。

日曜の夜は、たいてい、灯りが消えている時間帯です。

明日の予定表を何度も開きなおしてみたり、

まだ返事の来ていないメッセージを何度も確かめてみたり。

読めない字を、必死で読もうとしている。

読めないのは、あなたの読解力のせいじゃありません。

ただ、いま暗いだけです。

通過点みたいに見えるけれど

遠くの景色ばかり見ていると、

いま立っている場所が、ただの通過点みたいに見えてきます。

早く通りすぎたい場所。

まだ、本番じゃない場所。

でも、灯りが消えたときにたしかめられるのは、

足の裏がふれている、ここだけなんですよね。

ここだけが、いま、ほんとうに確かな場所。

日曜の夜がしんどい人は、まじめな人が多いです。

先のことをちゃんとしたいから、こころが遠くまで出かけてしまう。

出かけたこころは、けっこう疲れて帰ってきます。

だから今夜は、こころを遠出させないであげてください。

今日の小さな一歩(3分)

日曜の夜、目が遠くばかり見はじめたら、この3つをやってみてください。

①立ったまま、足の裏に体重をぜんぶ預ける(10秒)

かかと、つまさき、指の付け根。床がちゃんと支えてくれているのを、そのまま感じるだけでいいです。

②いる場所から手の届くものを、ひとつだけ元の位置に戻す

コップでも、リモコンでも、読みかけの本でも。ひとつです。全部やろうとすると、きっと疲れます。

③寝る前に、玄関の靴をそろえる

自分のぶんだけで、じゅうぶんです。

これは、片づけの話ではありません。

こころが遠くへ行きたがっているとき、

からだのほうから「ここだよ」と呼びもどしてあげる作業です。

先に所作を変えると、気持ちはあとからついてきます。

そろえた靴は、あしたのあなたが履きます。

今日のあなたは、そろえるところまで。

そこから先は、あしたの朝の光の下でだいじょうぶ。

やわらかい締め

遠くが見えない夜は、こわいですよね。

でも、見えないのは、あなたの目が悪いからじゃありません。

ただ、いま灯りが消えているだけ。

灯りは、また点きます。

そのときまでは、足元を看る。

それだけで、夜はちゃんと明けていきます。

焦らず、比べず、背伸びせず。

今夜は、足の裏に体重をあずけて。

そのまま、そっと目を閉じてくださいね。

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