連休が近づくと、いろんな「正解」が流れてきませんか?
いま行くならここ。
休みの日は、こう過ごすと満足度が高い。
なにもしない日をつくるのが、じつはいちばん大事。
どれも、たぶん本当のことなんだと思います。
でも、たくさん読んだあとに残るのは、なぜかスッキリした気分じゃなくて、少しだけ落ち着かない感じだったりする。
自分の休みなのに、答え合わせをしている。
そんな感じ、ありませんか?
『冷暖自知』という教え
禅の言葉に、『冷暖自知』(れいだんじち)というものがあります。
冷たいか、あたたかいか。
それは、飲んだ人にしかわからない。
そういう教えです。
どれだけ言葉を尽くして説明してもらっても、その水の温度は伝わってきません。
「ぬるめです」と言われても、その人のぬるめと、あなたのぬるめは、たぶんちがう。
自分で口をつけて、はじめて知る。
ぼくがこの言葉を好きなのは、上から目線がまったくないところです。
「人の言うことなんか聞くな」という話じゃないんですね。
「あなたの感覚には、あなたしか立ち会えない」という、ただそれだけの話。
だから、これは強い人のための言葉ではなくて、自分の感じ方に自信をなくしてしまった人のための言葉だと、ぼくは思っています。
ぼくは、人の正解をぜんぶ借りて走っていました
かつてのぼくは、事業をやっていました。
あのころのぼくは、うまくいっている人のやり方を、片っぱしから借りていました。
朝の時間の使い方。
読むべきとされる本。
人と話すときの姿勢。
一日の区切り方。
どれも、だれかがどこかで「これが効く」と言っていたものです。
問題は、借りたこと自体じゃなかったと思っています。
問題は、借りたまま、いちども自分の舌で確かめなかったことでした。
やってみて、しんどい。
でも、しんどいのは自分がまだ甘いからだと思っていました。
効いているのかどうか、正直、わからない。
でも、わからないと言うのがこわいから、つづける。
そうやって何年かやっているうちに、ふしぎなことが起きます。
自分がなにを気持ちいいと感じるのかが、わからなくなるんです。
好きな食べものも、うまく答えられない。
休みの日にやりたいことも、出てこない。
おいしい、すら、あやしくなってくる。
その先でぼくはアディクションに沈んで、部屋から出られなくなりました。
なにも残らなくなったあと、手もとに残っていたのは、ごく小さな体感だけでした。
朝、水道の水が冷たかった。
布団のなかは、あたたかかった。
カーテンを開けたら、まぶしくて目を閉じた。
だれの正解でもない、だれにも自慢できない、ちいさな感じ。
でも、ぼくがやり直せたのは、そこからだったんです。
借りものが悪いわけじゃありません
ここで、「人の言うことを聞くのをやめましょう」と言いたいわけではありません。
だれかのやり方を借りるのは、いい入り口です。
まったくの手ぶらで新しいことをはじめるのは、しんどすぎますから。
ただ、借りていいのは「試すところまで」なんだと思います。
冷たいか、あたたかいかを決めるのは、そこから先の、あなたの仕事です。
そして、たいていの人は、この最後の一歩をやらないまま終わります。
やらないというより、たぶん、こわいんですよね。
「合わない」と思うことが、こわい
みんながいいと言っているもの。
尊敬している人がすすめているもの。
本にも書いてあるし、実際に結果を出している人がやっているもの。
それを試して、なんとも思わなかったとき。
ぼくたちは、こう考えがちです。
「効かなかった」ではなく、「自分の受け取り方が浅いんだ」と。
繊細ながんばり屋さんほど、この癖があると思います。
自分の体感より、世の中の評価のほうを、正しいものとして扱ってしまう。
だから、合わないものを何年も握りつづけることになる。
でも、体感には、正解も不正解もありません。
冷たいと感じたなら、あなたにとって、その水は冷たい。
それだけのことなんです。
そこに「感じ方が未熟だから」という一枚をかぶせるから、重くなる。
つみへらし、というのは、たぶんこういうところにも効きます。
なにかを足して自分を高めるのではなく、自分の感覚の上にかぶせた他人の採点表を、そっと外す。
確かめるのに、大きな実験はいりません
自分の湯かげんを知るのに、人生をかけた検証はいりません。
一度やってみて、そのあとのからだを見るだけです。
からだは、けっこう正直です。
こころは言い訳をしますが、からだはあまり嘘をつきません。
やったあとに、肩が下がったか。
息が深くなったか。
それとも、なんとなく胸のあたりが浅いままか。
言葉にならなくても、いいんです。
「なんかよかった」「なんかしんどい」で、じゅうぶん。
その「なんか」こそが、あなたの手が知った湯かげんです。
今日の小さな一歩:3分の「湯かげんメモ」
紙でも、スマホのメモでもだいじょうぶです。
① 最近、人が「いいよ」と言っていたからつづけていることを、ひとつだけ思い出す。
朝の習慣でも、健康にいいとされる何かでも、なんとなくつづいている人づきあいでも。ひとつでいいです。
② 直近でそれをやったあと、自分のからだがどうだったかを、一行だけ書く。
「軽かった」「重かった」「なんとも思わなかった」。この三つのどれかで十分です。うまく言おうとしないでください。
③ 合う・合わないの判定は、しない。
ここが大事なところです。今日は、判定しません。ただ一行、置いておくだけ。
これだけです。
判定しないのには、理由があります。
一回でジャッジすると、その日の体調や気分に引っぱられてしまうから。
それに、判定するとなったとたん、こころが身がまえて、体感が引っこんでしまうんです。
だから、ためるだけ。
三回くらいたまると、おもしろいことが起きます。
判定していないのに、手のほうが勝手に選びはじめる。
「あ、今日はこれじゃないな」と、頭より先にわかるようになる。
それが、自分の湯かげんを知るということなんだと思っています。
おわりに
連休がやってきます。
いい休みにしなくて、だいじょうぶ。
だれかの正解どおりに過ごせなくても、まったく問題ありません。
その水が冷たいか、あたたかいか。
それは、あなたの手をそっと入れてみたときにだけ、わかります。
だれかに説明してもらう必要も、だれかに認めてもらう必要も、ないんです。
焦らず、比べず、背伸びせず。
あなたの湯かげんで、あなたの数日を。
