『中道』(ちゅうどう)——まんなかを、さがしすぎない

がんばりすぎか、なまけすぎか。

やさしすぎか、冷たすぎか。

自分のことを、いつもそのどちらかで採点していませんか?

ちょうどいいところに立ちたいのに、気づくとどっちかに寄っていて。

寄っていることに気づいて、あわてて反対側に走って。

そしてまた、行きすぎる。

そんなふうに、まんなかを探して一日じゅう歩きまわって、へとへとになっていませんか?

そんなあなたへ。

だいじょうぶ、あなただけじゃないですからね。

きょうは、昼と夜がおなじ長さの日

今日は秋分の日です。

昼と夜が、ほとんどおなじ長さになる日。

そして、お彼岸の中日でもあります。

ご先祖に手を合わせて、こちら側とむこう側の、ちょうどまんなかを思う日。

昔の人が、この日をわざわざ特別な日にしたのは、きっと、まんなかというものが、それだけむずかしかったからだと思うんです。

『中道』という教え

こんな言葉があります。

『中道』(ちゅうどう)。

かたよらない道、という意味の教えです。

お釈迦さまは、はじめ、徹底的に自分を痛めつける修行をしていたと言われています。

食べるものも極端に減らして、からだが骨と皮になるまで。

でも、それでは答えは出なかった。

かといって、欲のままに楽をする側に振り切っても、やっぱり答えは出ない。

そこで見つけたのが、どちらにもかたよらない道。それが『中道』です。

ここでぼくが、ぜひお伝えしたいことがあります。

『中道』は、「まんなかの一点にじっと立ちなさい」という意味じゃないんです。

少なくとも、ぼくはそう受け取っていません。

まんなかって、点じゃない。

もっと、幅のあるものです。

ヤジロベエを思い浮かべてみてください。

あれ、まっすぐ止まっていますか?

止まっていませんよね。ゆらゆら、いつも揺れています。

でも、倒れない。

揺れているから、倒れないんです。

『中道』って、たぶん、あの揺れのことなんじゃないかなと、ぼくは思っています。

ぼくは、両極端しか知らない人間でした

すこしだけ、ぼくの話を。

ぼくは若いころに起業して、そのあとアディクションに飲み込まれて、そこから引きこもりました。

いま振り返ると、ぼくの人生には「まんなか」がなかったんです。

やるときは、倒れるまでやる。

だめなときは、一ミリも動かない。

100か、0か。

「今日は60くらいでいこう」という発想が、そもそも頭になかった。

だから、走っているときのぼくは、自分がゼロになる日のことをまったく想像していなかったし、ゼロになったぼくは、もう二度と走れないと本気で思い込んでいました。

極端は、わかりやすいんです。

迷わなくていいから、らくなんです。

でも、極端は、いつか折れます。

ボキッと。

まんなかを歩くというのは、じつは、いちばん勇気がいることでした。

だって、はっきりしないから。

がんばっているとも言えないし、休んでいるとも言えない。

その、どっちつかずの気持ち悪さに、耐えられなかったんですね。

まんなかは、あとからわかる

でも、いまは、こう思っています。

まんなかは、さがすものじゃなくて、揺れているうちに、あとからわかるもの。

今日ちょっとがんばりすぎたな、と思ったら、あしたはすこし引く。

昨日ゆるみすぎたな、と思ったら、今日はひとつだけやってみる。

その行ったり来たりの軌跡を、遠くから眺めたときに、

「ああ、だいたい、まんなかを歩いてきたな」とわかる。

それでじゅうぶんなんじゃないでしょうか?

一日のなかでまんなかに立とうとすると、しんどい。

一年のなかでまんなかなら、あんがい、できている。

そして、もうひとつだけ。

まんなかは、人によって、ちがう場所にあります。

だれかの「ほどほど」は、あなたにとっては全力かもしれないし、その逆もある。

だから、人のまんなかを借りてこないほうがいいんです。

借りてきたまんなかに立とうとすると、たいてい、また極端になります。

あなたのまんなかは、あなたのからだが知っています。

頭ではなくて、からだが。

夜、ふとんに入ったときに「ああ、今日はちょうどよかったな」と思えたら、それが今日のまんなかです。

今日の小さな一歩・3分

秋分の日の今日、これをやってみてください。

① 紙に、いま「0か100か」で考えていることをひとつ書く

(例:「今日は完全に休むか、全部やるか」「あの人とは仲良くするか、切るか」)

② その下に、線をひいて、こう書く。

「じゃあ、50はどんな形?」

③ 思いついた50を、ひとことだけ書く

(例:「洗濯だけして、あとは寝る」「返信はするけど、今日は会わない」)

これだけです。

答えがへんてこでもいいんです。

50を言葉にした、という事実のほうが大事なので。

そしてもし、今日どこかで手を合わせる機会があったら、そのときに三呼吸だけ、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いてみてください。

吸うと吐くのあいだにも、ちゃんと、まんなかがあります。

さいごに

昼と夜が、おなじ長さの日。

でも、明日からはまた、夜のほうが少しずつ長くなっていきます。

自然だって、まんなかにじっとしていてはくれません。

それでいいんだと思います。

かたよって、戻って、また少しかたよって。

その揺れごと、あなたの道です。

焦らず、比べず、背伸びせず。

今日は、あなたの「50」を、ひとことだけ。

だいじょうぶ。

ゆらゆら揺れているあいだは、まだ、ちゃんと立っていますからね。

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