七夕に書く、ひとつだけの「願い」と「手放したいもの」。

7月7日、七夕。

笹に短冊を吊るす、というあの懐かしい行事を、何年もしていない。

そんな人のほうが、いまは多いかもしれませんね。

短冊に願いを書くことに、どこか気恥ずかしさを感じる。

あるいは、いざ書こうとしても、なにを書いていいか分からない。

そんなあなたへ、今日はちょっとだけ、ペンを持つ時間を提案させてください。

ぼくは、ずいぶん長いあいだ、願いごとを書くのが苦手な大人でした。

「健康でありますように」「家族が無事でありますように」、それはそうだけれど、

それを書くと、もうほかの願いを書けない気がしてしまう。

そして、「ぼくの欲しいもの」を素直に書けないまま、白い短冊を握りしめて立ち止まっていた、ということが何回もあったんです。

いまならその理由が、なんとなく分かります。

ぼくは、願いを書くたびに「これを叶えるためには、また何かを足さないといけない」と感じていた。

願う=負荷を増やす、という方程式が、いつのまにかぼくの頭にできあがっていたんですね。

そんなぼくが、ようやく短冊を握りしめずに書けるようになったのは、

「願いをひとつだけにする」と決めて、もうひとつ別の紙に「手放したいもの」を書き始めてからでした。

『応無所住而生其心』(おうむしょじゅう にしょうごしん)。

こころをどこにも留めずに、しなやかに生きる、という禅の言葉です。

ひとつの願いに執着するためじゃなく、たくさんの「とらわれ」を置いていくために、短冊を使う。

今日の小さな一歩は、たった二枚の紙です。

一枚目に、今年いちばん、自分のこころが軽くなる「願い」をひとつだけ書く。

二枚目に、今年のあいだ、いったん「手放したいもの」をひとつだけ書く。

仕事の重さでも、誰かとの関係の引っかかりでも、自分への厳しすぎる声でも。

書いたら、一枚目はそっと机のうえに飾って、たまに眺めてあげてください。

二枚目は、燃やしても、千切ってゴミ箱に入れても、引き出しの奥にしまってもいい。

書き出した、というそれだけで、こころのスペースはもう少しだけひらいているはずです。

願いを足すのと同じ重さで、手放したいものをひとつ降ろす、七夕。

焦らず、比べず、背伸びせず。

笹がなくても、星が見えなくても、ぼくたちの願いはちゃんと夜空に届いていますからね。

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