まずは、お茶を一杯のんでいきませんか

月曜日の朝。あたらしい一週間が、もう、目の前で口をあけて待っている。

やることのリストが、頭のなかで、グルグルとまわりだす。あれもやらなきゃ、これも片づけなきゃ。

まだ、なにもはじめていないのに。もう、こころだけが、先へ先へと走っていく。

布団を出る前から、もう、くたびれている。そんな朝が、ありませんか。

そんなあなたへ。だいじょうぶ。あなただけじゃないですからね。

きょうは、ぼくの好きな禅語を、ひとつ、おすそわけしたいと思います。

『喫茶去』(きっさこ)。

意味は、とてもシンプルです。「まあ、お茶でも一杯のんでいきなさい」。ただ、それだけ。

むかし、趙州(じょうしゅう)という禅のお坊さんがいました。たずねてきた人に、来たことがある人にも、はじめての人にも。だれにでも、おなじひとことを言ったそうです。

「喫茶去」。お茶でも、のんでいきなさい、と。

すごい教えを説くわけでも、相手によって態度を変えるわけでもない。ただ、目の前の人に、目の前のお茶を、すすめる。

この、なんでもないようなひとことに、禅のいちばん大切なものが、つまっているんです。

それは、「今、ここ」に、ちゃんといる、ということ。

正直に打ち明けると、かつてのぼくは、「今、ここ」が、まったくできない人間でした。

起業して、いつも、頭は未来にありました。来月の数字。来年の計画。まだ来てもいない不安。

目の前のごはんを食べていても、味なんて、わかっていなかった。だれかと話していても、頭のなかでは、次の予定を考えていた。頭のなかは、いつも、ここではない、どこかにありました。

今、ここにいるはずなのに、こころだけが、いつも、留守でした。からだは、ここ。こころは、未来。いつも、ばらばら。

そうやって、今を、ぜんぶ通りすぎて。走りつづけた先で、こころが、ボキッと折れてしまった。部屋から出られなくなった時期がありました。

あのとき、ぼくは、一杯のお茶も、ちゃんと味わえていなかったんです。人生という、一杯のお茶を。

部屋から出られなくなって、することが、なにもなくなって。ぼくは、はじめて、一杯のお茶を、ゆっくり、のみました。湯気の、ゆらぎを、ただ、ながめました。そのとき、あたたかい、と、こころが、ようやく、感じたんです。

なにも生み出さない、ただの一杯のお茶。でも、それが、ぼくのこころを、ほんのすこし、ほどいてくれた。あんなに、ほっとしたのは、何年ぶりだったか、わかりません。

今を、ちゃんと味わう。それは、ぼくが、いちばん遠回りして、たどりついた、当たり前のことでした。

ちなみに「喫茶去」の「去」は、立ち去れ、という意味ではないそうです。ただ語調をととのえる字で、つよい命令ではない。

「まあ、お茶でも」という、あの、肩の力の抜けたゆるさ。そこにこそ、この言葉の、やさしさがあるんだと、ぼくは感じています。

しんどいときほど、ぼくたちは、なにか、すごい解決策を、さがしがちです。でも、禅が、こたえとして差し出すのは、いつも、こんなに、ささやかなこと。

お茶を、一杯。それだけで、いいんですよ、と。その、ささやかさに、ぼくは、何度も、救われてきました。

『喫茶去』が教えてくれるのは、こういうことだと、ぼくは思っています。

未来の心配ごとを、いったん、ぜんぶ置いて。今、目の前にある、この一杯に、こころを向ける。

お茶の、あたたかさ。湯気の、ゆらぎ。ひとくち、ふくんだときの、ほっとする感じ。

その、たった数分のあいだだけは。あれもこれもと走りまわる頭を、止めてあげる。

それだけで、こころは、ふっと、今に還ってくるんです。そして、不思議と、すうっと、軽くなる。

やることが山積みのときほど、ぼくたちは、お茶をのむ時間すら、もったいないと感じます。そんなことしてる場合じゃない、と。

でも、ほんとうは、逆なんです。

走りつづけて、視界がぼやけているときほど。いちど立ちどまって、一杯のお茶で、こころのピントを合わせなおす。

そのほうが、結局、目の前のことに、ちゃんと向き合えるようになる。

急がば、まわれ。急ぐときほど、お茶を一杯。これは、ぼくが、こころが折れたあとで、ようやく学んだことです。

今日できる、小さな一歩。むずかしいことは、なにもありません。

今日のどこかで、一回だけ。お茶でも、コーヒーでも、白湯でもいい。あたたかい飲みものを、いれてみてください。

そして、その一杯をのむあいだだけは。スマホを置いて。やることリストも、いったん、わきに置いて。

ただ、その一杯の、あたたかさだけを、味わう。手のひらに伝わる、ぬくもり。立ちのぼる湯気を、ただ、ぼうっと、ながめる。

たった三分。でも、その三分が、あなたの一日に、すっと、芯を通してくれます。

その三分のなかでは、あなたは、なにも生み出さなくていい。ただ、お茶をのむ、それだけで、じゅうぶん尊い時間なんです。なにもしていない、その時間こそ、こころが、いちばん休まる時間ですから。

焦らず、比べず、背伸びせず。さあ、まずは、お茶を一杯のんでいきましょう。

月曜日の続きは、それから、ゆっくりでいいんですからね。

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