ずっと握りしめているものが、ありませんか。
もう終わったはずの関係。うまくいかなかったやり方。「こうでなきゃ」という、自分への決まりごと。
手放したほうがいいと、ほんとうは気づいている。それなのに、指がこわばって、どうしてもひらけない。
そんなあなたへ。だいじょうぶ。あなただけじゃないですからね。
きょうは、そんなときにそっと思い出したい禅語を、ひとつお渡しさせてください。
『放下着』(ほうげじゃく)。
「手にしているものを、いったん、ぜんぶ下に置いてしまいなさい」という、禅の教えです。
中国の趙州(じょうしゅう)和尚という方にまつわる言葉だと言われています。少しむずかしい話ですが、ある修行僧が「もう何も持っていません、こころは空っぽです」とやってきたときに、和尚が「放下着——それも置いてしまえ」と返した、と伝わっています。
「何も持っていない」という、その手柄すらも手放しなさい。そういう、徹底した引き算の言葉です。
ぼくは、この「着」という字が、ずっと好きでした。「下に、置く」。捨てる、でも、奪われる、でもなくて。
ただ、ずっと握っていた手を、ひらいて、足もとにそっと置く。それだけのことなんだ、と。
正直に打ち明けると、かつてのぼくは、握る天才でした。
起業して、走りはじめたころ。うまくいったやり方を、ぜったいに離さなかった。一度ほめてくれた人の言葉を、何年も握りしめていた。「成功している自分」というイメージを、もう剥がれかけているのに、爪を立てて押さえていました。
握っているあいだは、安心なんです。それを離したら、自分には何も残らない気がして、こわかった。
でも、両手がふさがっていると、あたらしいものは、何ひとつ受け取れないんですよね。
気づけば、お酒や刺激に逃げて、部屋に引きこもった時期もありました。握りしめすぎて、こころが、ボキッと折れてしまったんだと思います。
しがみついていたのは、相手じゃなかった
おもしろいもので、いざ手をひらいてみると、気づくことがあります。
ぼくが握りしめていたのは、ほんとうは「相手」でも「過去」でもなかった。それを手放したあとの、自分のさみしさのほうだったんです。
人を恨みつづけていたのは、その人が憎いからじゃなくて。許してしまったら、傷ついた自分が、行き場をなくす気がしたから。
過去のやり方にしがみついていたのは、それが正しいからじゃなくて。変わるのが、ただ、こわかったから。
しがみつく手の奥には、いつも、おびえた自分がいました。
握っていたのは、ものや人じゃなくて。それを手放した先にある、ぽっかりとした空白が、こわかった。何かを握っていれば、その空白を、見ないでいられたんです。
ぼくは長いあいだ、握ることを「強さ」だと勘ちがいしていました。歯を食いしばって、ぜったいに離さない。そういう自分を、頼もしいとさえ思っていた。でも、ほんとうの強さは、握りつづけることじゃなくて、こわくても、そっと手をひらけることのほうだったんですよね。
だから、『放下着』は、「執着を捨てろ」という叱りの言葉だとは、ぼくは思っていません。
「もう、そんなに力を入れて、握っていなくていいんだよ」。そういう、肩をそっとさすってくれるような言葉として、受け取っています。
ひらいた手にしか、のらないもの
握った手のひらには、雨も、風も、だれかの手のぬくもりも、のせられません。ひらいて、はじめて、いろんなものがのってくる。
手放すというのは、失うことではなくて。両手を、また「受け取れる」状態に戻してあげることなんだと、いまは思います。
焦って、ぜんぶ手放さなくて、だいじょうぶ。いっぺんに指をひらいたら、それはそれで、こころがびっくりしてしまいますから。
今日できる、小さな一歩
むずかしい修行は、いりません。3分くらいでできる、小さなワークをひとつ。
① いま、こころのなかで握りしめているものを、ひとつだけ、思い浮かべてみる。人でも、できごとでも、「こうあるべき」でも、なんでもいい。
② 両手を、ぎゅっと握ってみる。その「握っている感じ」を、十秒だけ、味わってみる。ああ、こんなに力が入っていたんだな、と。
③ ゆっくり息を吐きながら、その手を、ひらく。ひざの上にでも、ぱたんと置いてあげる。声に出さず、こころのなかで「いったん、置いておくね」とつぶやいて。
たったこれだけです。
ぜんぶ手放せなくても、だいじょうぶ。「まだ握っていたいな」も、ちゃんと、あなたの正直な気持ちですから。
握りつづけて折れていたあのころのぼくに、もし声をかけられるなら、こう言いたいんです。
そんなに、ぜんぶ持って歩かなくていいよ。重かったでしょう。よく、ここまで運んできたね、と。
焦らず、比べず、握りしめず。ひらいた手のひらに、今日という日を、そっとのせていきましょうね。
きっと、置いていけます。あなたが思っているより、ずっと、軽くなれますから。
