あなたがなにげなく描いたもの、作ったもの、書いたものに、もし値段がついたら。
そんなこと、想像したことはありますか?
「じぶんの作ったものなんて」と、笑って手を振る人が多いかもしれません。
でも、料理でも、庭の花でも、手帳の隅の落書きでも。
あなたの手は、きょうも、なにかしらを生んでいます。
きょうは、その「じぶんのなんて」に、そっと話しかけたいんです。
ぼくはいま、障害のある人たちが働く場所に関わっています。
そこでは、日々、いろんなものが生まれています。
絵。
もようや、いろの組みあわせ。
手を動かした時間が、そのまま形になったような作品たち。
どれも、その人にしか出せない、いろをしています。
上手に描こうとして生まれたいろ、ではないんです。
その日の気分。
その人の好きなもの。
その人が積み重ねてきた時間。
そういうものが、手を通って、そのまま紙や布の上にあらわれる。
だから、おなじものは、ふたつとありません。
世界にいちまいだけの、いろなんです。
そして、その作品がだれかの目にとまり、だれかの手に渡り、対価が作った本人にめぐっていく。
その手が生んだ彩りに、値段がつく日。
ぼくは、その循環を育てたくて、この仕事をしています。
ここで、だいじにしていることがあります。
値段がつくというのは、「うまさ」の査定ではない、ということです。
うまいから売れる、へただから売れない。
そういう、ものさしの話ではなくて。
「あなたの彩りが、だれかに届いた」というしるし。
「あなたの手が動かした時間を、だれかが受けとった」という、めぐりの話なんです。
うまい・へたのものさしで測れば、世の中には「もっとうまい」が、いくらでもあるでしょう。
でも、その人のいろは、その人にしか出せません。
そして、そのいろを「好きだな」と思う人も、この世界のどこかに、ちゃんといるんです。
出会いさえ、すれば。
だからぼくの仕事は、売りこむことというより、彩りと人が出会う道を、そっとつなぐことなんだと思っています。
なぜ、ぼくがここにこだわるのか。
ぼく自身、どん底の時期があったからです。
事業に失敗して、こころとからだを壊して、部屋から出られなくなって。
あのころのぼくは、じぶんが生み出すものに、なんの価値も感じられませんでした。
じぶんのやることなんて、だれの役にも立たない。
じぶんがいてもいなくても、世界は変わらない。
本気で、そう思っていました。
そんな時期のぼくに、もし「あなたの生んだものを、受けとったよ」と言ってくれる人が、ひとりでもいたら。
たぶん、あの暗さは、少しちがうものになっていたと思うんです。
だからこそ、わかるんです。
じぶんの生んだものが、だれかに受けとられる。
その小さな事実が、人をどれだけあたため直すか。
お金は、こわいものにも、冷たいものにもなり得ます。
でも、本当は、感謝や「受けとったよ」の気持ちを運ぶ、めぐりの道具でもある。
だれかの「好きだな」が、対価というかたちになって、作った人の暮らしと、次のいちまいを支えていく。
お金がそんなふうに流れるところを、ぼくはこの場所で、何度も見せてもらってきました。
表現がだれかに届いて、対価にかわって、その対価がまた次の表現を支えていく。
そういう、あたたかいめぐりが、この社会のあちこちに流れていったらいいな。
ぼくは、そんな未来をつくりたいと思っています。
大きなことを、いっぺんに変えようとは思っていません。
ひとつの作品が、ひとりに届く。
その対価が、ひとりの手元にめぐる。
その小さなめぐりを、ひとつ、またひとつと、ふやしていく。
遠回りに見えて、それがいちばん、たしかな道だと信じています。
もし気になった方は、そっとのぞいてみてください。
作品ギャラリー: https://gallery.lifeartlab.com/
さて、きょうの小さな一歩は、買うことでも、作ることでもありません。
3分だけ、身のまわりの「だれかの手が生んだもの」を、じっくりながめてみてください。
湯のみでも、椅子でも、パッケージのもようでも。
①ひとつ選んで、手に取る
②「これも、だれかの手が生んだんだな」と思ってみる
③その彩りに、こころの中で「ありがとう」を置く
世界が、手仕事の彩りでできていることに気づくと、きょうの景色が少しだけ、ゆたかに見えてきます。
そして、受けとる練習をした人は、じぶんの生んだものを、だれかに受けとってもらうことにも、少しずつ、ひらいていけます。
めぐりは、受けとるところから始まるんです。
あなたの手が生むものにも、あなたにしか出せない、いろがあります。
それを忘れないでいてくださいね。
あなたのいろを、たのしみにしている人も、きっとどこかにいますから。
きょうも、いろんな手が、いろんな彩りを生んでいますように。
