かつてのぼくの部屋は、モノであふれていました。
読まない本。
着ない服。
「いつか使うかも」の箱たち。
とくに、こころが弱っていた時期ほど、モノは増えていきました。
さみしさを、買いもので埋めようとしていたんだと思います。
ポチッと押した瞬間だけ、ふわっと気持ちが上がる。
届いた箱を開けたら、もう次のものが欲しくなっている。
部屋から出られなかったころ、ぼくは、モノの山にかこまれて寝ていました。
いま思えば、あの山は、ぼくの不安のかたちだったんですね。
モノって、ただそこにあるだけで、小さな声を出すんです。
「いつか読まなきゃ」
「高かったのに、使ってないね」
「早く片づけなよ」
部屋じゅうのモノが、いっせいにささやいてくる。
弱っているときほど、その声は、大きく聞こえました。
片づける元気なんてないのに、片づいていない景色だけは、毎日ちゃんと目に入ってくる。
あれは、じわじわとこころを削っていく時間でした。
そんなぼくが、少しずつ立ち直っていく途中で出会ったのが、「手放す」という考え方でした。
足すより、減らす。
持つより、手放す。
ぼくはこれを「つみへらし」と呼んで、じぶんの生き方の真ん中に置いています。
そして、これは夏にこそ、効くんです。
持たない身軽さが、夏をらくにする。
暑い季節、モノが多い部屋は、空気まで重たくなります。
床にモノがあると、風の通り道がふさがれる。
視界がごちゃごちゃしていると、それだけで、こころの温度も上がる。
逆に、モノを減らした部屋は、目にも、こころにも、涼しいんです。
それに、モノが多いと、ぼくたちは一日に何度も「選ぶ」ことになります。
どの服を着るか。
どれを使うか。
どこに置くか。
小さな選択のたびに、こころの体力は、少しずつ使われていく。
ただでさえ暑さで体力が削られる夏に、これはけっこう、効いてくるんです。
モノを減らすことは、選ぶ回数を減らすこと。
つまり、こころの節電でもあるんですね。
夏のこころの体力は、思っているより貴重品です。
節電して浮いたぶんは、どうか、あなたの好きなことに使ってあげてください。
ぼくが初めて、部屋のモノをごっそり手放した日のことは、いまでも覚えています。
がらんとした床を見て、最初は少し、心細くなりました。
でも、そのうち気づいたんです。
部屋が広くなったんじゃなくて、こころが広くなったんだと。
モノを手放すことは、モノにくっついていた「とらわれ」を手放すことでした。
「いつか使うかも」は、未来への不安。
「高かったのに」は、過去への執着。
モノの山は、じつは、不安と執着の山だったんです。
だから、手放すのがこわいのは、あたりまえなんです。
モノを手放すことは、そこにくっついた不安や思い出と、いちど向き合うことだから。
「捨てられないなんて、じぶんはダメだな」と思わなくて、だいじょうぶ。
捨てられないのは、それだけ、モノに気持ちをていねいに結びつけてきた証拠でもありますから。
とはいえ、いきなり全部は手放せませんよね。
それでいいんです。
ぼくも、一気にやったわけではありません。
ひとつ手放しては、部屋をながめて。
またひとつ手放しては、風を感じて。
その積み重ねでした。
ふしぎなもので、手放すことに慣れてくると、買うときの気持ちも変わってきました。
「これ、ほんとうにうちに来てほしい?」と、ひと呼吸おけるようになったんです。
さみしさで買うのと、好きで迎えるのとでは、おなじ買いものでも、あとに残るものがまるでちがいます。
減らすことは、けっきょく、だいじなものをだいじにする練習なんですね。
というわけで、きょうの小さな一歩です。
きょうは、ひとつだけ、手放してみてください。
①部屋を見わたして、目についた「もう使っていないもの」をひとつ手に取る
②「いままでありがとう」と言って、袋か箱に入れる
③空いたすき間を、しばらくながめる
ポイントは、③です。
手放したことより、生まれた余白をあじわうこと。
そのすき間に、夏の風が通ります。
迷ったら、無理に手放さなくてだいじょうぶ。
迷うということは、まだ役目があるのかもしれませんから。
「ありがとう」を言うのは、少し照れくさいかもしれません。
でも、この一言があるだけで、手放すことが「捨てる」から「見送る」に変わるんです。
見送ったモノは、こころに、とげを残しません。
モノを責めない。
ためこんだじぶんも、責めない。
ためこんだ日々にも、そうするしかなかった理由が、ちゃんとあったんです。
身軽になるのは、少しずつでいい。
ひとつ手放すたび、部屋に、こころに、風が通ります。
この夏が、あなたにとって、少しでも軽やかでありますように。
