通帳の残高、最後にちゃんと見たのは、いつですか?
家計簿のアプリ、開くのがなんとなくこわくて、そのままになっていませんか?
お金のことを考えると、胸のあたりがモヤモヤして、つい後回しにしてしまう。
そんなあなたへ、きょうはこの言葉を置かせてください。
お金は、こわがるほど、見えなくなる。
こわいから、見ない。
見ないから、わからなくなる。
わからないから、もっとこわくなる。
お金の不安って、たいてい、このグルグルの中で育っていくんです。
つまり、ぼくたちがこわがっているのは、金額そのものじゃなくて、「わからなさ」のほうなんですね。
ぼくにも、通帳が開けなかった時期があります。
事業に失敗したあと、こころとからだを壊して引きこもっていたころ。
お金の話は、ぼくにとって、いちばん触れたくない場所でした。
通帳を見たら、じぶんの失敗を突きつけられる気がして。
数字を見たら、「おまえはダメだ」と言われる気がして。
だから、見ないようにしていました。
見ないでいるあいだ、不安は消えるどころか、部屋の隅でどんどん大きくなっていきました。
見えないものって、想像の中で、実物より大きくなるんです。
子どものころ、暗い部屋のカーテンのふくらみが、おばけに見えたことはありませんか。
こわごわ電気をつけてみたら、ただの洗濯物だった、みたいなこと。
お金の不安も、あれとおなじ仕組みなんですね。
見ないでいるあいだに、不安は想像の中で、実際の何倍にもふくらんでいく。
でも、あるとき、覚悟を決めて、そっと通帳を開いたんです。
そこで、ふしぎなことに気づきました。
数字は、ただの数字だったんです。
数字は、ぼくを責めていませんでした。
「おまえはダメだ」と言っていたのは、数字ではなくて、数字を見たときに鳴り出す、ぼく自身の声だったんです。
それがわかってから、お金との距離が、少しずつ変わっていきました。
といっても、いっぺんに平気になったわけではありません。
最初のうちは、通帳を開くたびに、胸のあたりがきゅっとなりました。
開いては、閉じて。
また数日たって、そっと開いて。
でも、回数を重ねるうちに、気づいたんです。
こわかったのは最初の数秒だけで、見てしまえば、あとはただの数字の並びだった、ということに。
不安は、見る前がいちばん大きい。
これは、お金にかぎらない話かもしれませんね。
禅に、あるがままを見る、という姿勢があります。
いい・悪いのジャッジをはさまずに、ただ、そのままを見る。
お金にも、これがそのまま効くんです。
残高を見て、「多い」「少ない」「やばい」と裁くのではなく。
ただ、「いま、こうなんだな」と見る。
それだけで、お金は「こわいもの」から、「暮らしの道具」に戻ってきます。
ここでだいじなのは、「見る」と「裁く」を、分けることです。
ぼくたちは、残高を見た瞬間、ほとんど反射でジャッジを始めてしまいます。
「先月より減ってる」
「あの買いものが、まずかったかな」
「このままじゃ、まずいんじゃないか」
見ることと、責めることが、いつのまにかセットになってしまっているんですね。
だから、ほんとうにこわいのは、見ること自体じゃなくて、そのあとに始まる、じぶんへの裁判のほう。
裁判さえ始めなければ、見ることは、ただの確認です。
天気予報を見るのと、そんなに変わりません。
雨の予報を見て、じぶんを責める人はいませんよね。
「そうか、雨か。じゃあ傘だな」で、終わりです。
残高も、ほんとうは、それでいいんです。
「そうか、いまはこうか。じゃあ、どうしようかな」で、じゅうぶん。
お金は、敵でも、神さまでもありません。
ぼくたちの暮らしを運ぶための、道具です。
道具は、こわがって遠ざけるより、ときどきながめて、手入れするくらいの距離感が、ちょうどいい。
そこで、きょうの3分ワークです。
週末の前の今夜、3分だけ、お金と顔を合わせてみてください。
①通帳かアプリを、そっと開く
②いい・悪いを言わずに、残高をただながめる
③「教えてくれてありがとう」と言って、閉じる
ポイントは、②です。
反省会は、しなくていいんです。
節約の計画も、きょうは立てなくていい。
ただ、見る。
それだけで、「わからないこわさ」が、ひとつ減ります。
もし、開いた瞬間に胸がきゅっとなっても、だいじょうぶ。
「きゅっとなったな」と気づくだけでいい。
その感覚も、いい・悪いを言わずに、ただながめてみてください。
一回でできなくても、いいんです。
きょう開けなかったら、あしたでも、来週でもいい。
逃げてきた時間が長いほど、扉は重くなっているものですから。
重い扉を、じぶんを責めながら開ける必要はありません。
見られるようになったあなたは、もう、お金から逃げていません。
焦らず、比べず、背伸びせず。
お金とも、じぶんのペースで、少しずつ仲直りしていきましょうね。
