『而今』(にこん)──いまを生ききる、という祈り。8月15日に

きょうは、8月15日ですね。

静かに、手を合わせる日。

テレビの前で、街の片隅で、それぞれの場所で、たくさんの人が目を閉じる日です。

そんな日に、ひとつの禅語のお話をさせてください。

◆過去と未来に、さらわれていませんか

その前に、ひとつ問いかけを。

あなたは最近、「いま」を生きた瞬間が、どれくらいありましたか?

過ぎたことをグルグルと悔やんで。

先のことをモヤモヤと心配して。

からだはここにあるのに、こころはいつも、過去か未来に出かけている。

そんなふうに、なっていないでしょうか。

ぼくは、長いあいだそうでした。

とくに、しんどい時期ほど、こころは「いま」から離れたがります。

いまがつらいから、過去の「もしも」に逃げ込む。

いまが不安だから、未来の「どうしよう」を先取りする。

でも、逃げ込んだ先にも、安らぎはありませんでした。

過去の「もしも」は、いつも後悔で終わり、未来の「どうしよう」は、いつも不安で終わる。

こころの旅は、行き先がどちらでも、疲れて帰ってくるだけでした。

◆『而今』(にこん)という言葉

少しむずかしいですが、『而今』(にこん)という禅語があります。

道元禅師が大切にしたと伝わる言葉で、「いま、この瞬間こそが、かけがえのないほんとうの時間である」というような教えです。

ぼくなりにやわらかく翻訳すると、こうなります。

「過去も未来も、頭のなかの物語。あなたが生きられるのは、いま、ここだけ」

過去は、もう手を伸ばしても届きません。

未来は、まだ手を伸ばしても届きません。

さわれるのは、いま、この瞬間だけなんですね。

「そんなことは分かっている」と思われるかもしれません。

ぼくも、頭では分かっていました。

でも、頭で分かることと、暮らしのなかで生きることのあいだには、ずいぶん距離があるんですね。

『而今』は、その距離を、日々の小さな実践で埋めていく言葉なのだと思います。

◆こころが一度も「いま」にいなかったころ

引きこもっていたころのぼくは、後悔と不安だけで一日が終わっていました。

あのとき、ああしていれば。

このさき、どうなってしまうんだろう。

朝から晩まで、頭のなかは過去と未来でぎゅうぎゅうで、からだは部屋にあるのに、こころは一度も「いま」にいない。

いま思えば、あれがいちばん、苦しかった。

再生の入口になったのは、「いま」に帰ってくる練習でした。

お茶を飲むときは、ただお茶を飲む。

歩くときは、ただ歩く。

呼吸をするときは、ただ呼吸をする。

たったそれだけのことが、こんなにもこころを静かにしてくれるのかと、驚いたのを覚えています。

もちろん、最初からうまくはいきませんでした。

お茶を飲みながら、気づけば後悔の続きを考えている。

歩きながら、気づけばあしたの心配をしている。

でも、それでいいのだそうです。

こころが「いま」から離れたことに気づいて、そっと連れて帰ってくる。

その往復こそが練習なのだと知ってから、ずいぶん気がらくになりました。

離れても、帰ってくればいい。

何度でも、何度でも。

呼吸は、いつでも「いま」にしかありません。

だから、迷子になったら、まず呼吸に帰る。

ぼくはいまでも、その練習の途中にいます。

◆いまを生ききることが、祈りになる

きょう、8月15日。

ぼくたちがこうしてふつうに朝を迎えて、ごはんを食べて、誰かと言葉を交わせること。

それは、あたりまえのことではないのだと思います。

この「いま」は、数えきれない人たちの「いま」の積み重ねの上にある。

だからこそ、と思うのです。

いまを生ききることが、いちばん静かな祈りになるのではないかと。

むずかしい顔を、しなくていい。

特別なことを、しなくていい。

きょうのごはんを、ていねいに食べる。

きょう会う人に、ていねいに接する。

きょうの空を、ちゃんと見上げる。

それだけで、じゅうぶん祈りになると、ぼくは思うのです。

ごはんを食べられること。

帰る場所があること。

「おやすみ」を言える相手がいること。

ふだんは通り過ぎてしまう、あたりまえの風景。

きょうくらいは、そのひとつひとつを、すこしだけゆっくり味わってみたいのです。

あたりまえを、あたりまえと思わずに味わうこと。

それも『而今』の、ひとつの形だと思うから。

◆今日の小さな一歩

きょう、どこかのタイミングで、10秒だけ手を合わせてみてください。

何かを願わなくて、いいのです。

目を閉じて、ひと呼吸して、こころのなかでひとことだけ。

「いま、ここに、生きています」

それだけで。

手を合わせるという所作には、不思議な力があります。

両手を合わせると、それだけで、こころがすこし静かになる。

考えごとの続きは、いったんそこで途切れて、「いま」に帰ってこられる。

昔の人は、きっとそれを知っていたのでしょうね。

而今。

いまを、生ききる。

きょうがあなたにとって、静かで、やわらかい一日でありますように。

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