クローゼットをあけるたび、「着ていない服」とふと目が合って、そっと閉じてしまうことはありませんか?
夏の終わりのこの時期。そろそろ衣替えが頭をよぎるころです。
でも、なんだか腰が重い。
それはたぶん、服の数が多いからではなくて、服のむこう側にある「気持ち」が重いからかもしれません。
いつか着るかもしれない。
まだ着られるのに、もったいない。
高かったし。もらいものだし。やせたら着るはずだし。
服そのものよりも、そういう「いつか」や「もったいない」が、クローゼットのなかにぎゅうぎゅうに詰まっている。
そう考えると、衣替えって、じつはモノの作業ではなくて、こころの作業なんですよね。
ぼくは、モノの片づけは、こころの片づけと地続きだと思っています。
つみへらし。
足すより、手放す。
執着やこだわり、とらわれをひとつ減らすと、こころにひとつ、余白が生まれる。
ぼくはそんなふうに考えて、暮らしています。
かつてのぼくの部屋は、モノだらけでした。
起業していたころは、うまくいっているように見せるためのモノを買い込みました。
こころが沈んでいたころは、買うことだけが、ひとときの気晴らしでした。
引きこもっていたころは、増えすぎたモノの山を、ただぼんやり眺めることしかできませんでした。
いま振り返ると、部屋の重さは、そのままこころの重さでした。
モヤモヤが増えるほど、モノも増えていく。
モノが増えるほど、息が浅くなっていく。
そんな悪循環のまんなかに、ぼくはずっと座り込んでいたのだと思います。
再生の道のりのなかで、ぼくは少しずつ、モノを手放していきました。
おもしろいもので、ひとつ手放すたびに、息がひとつ、深くなっていくんです。
ポーンと手放したあとの床の余白が、そのままこころの余白になっていく。
あの感覚は、いまでもぼくの土台になっています。
なかでも、服は、いちばん手ごわい相手でした。
服には、「こう見られたい」という気持ちが、まっすぐに映るからだと思います。
起業していたころのぼくのクローゼットには、じぶんを大きく見せるための服が、ずらりと並んでいました。
着るたびに、少しだけ息が苦しくなる服。それでも「これがじぶんだ」と言い聞かせて、袖を通していた服。
手放すとき、正直、こわかったのを覚えています。
この服を手放したら、あのころのがんばりまで、なかったことになってしまう気がして。
でも、実際に手放してみると、逆でした。
がんばった記憶は、ちゃんとこころに残る。
重さだけが、すっと消えていく。
モノを手放しても、思い出も、がんばった日々も、消えたりしないんですよね。
とはいえ。
「ぜんぶ捨てましょう」と言いたいわけでは、まったくありません。
思い出の服もあります。手放せない事情もあります。それでいいんです。
手放せないじぶんを責めること。
じつはそれこそが、いちばん最初に手放していい荷物だと、ぼくは思っています。
服には、過去のじぶんが染み込んでいます。
背伸びしていたころの服。がんばりすぎていたころの服。だれかに合わせていたころの服。
だから手放しにくいし、だからこそ、そっと見送れたとき、こころがふっと軽くなるのです。
というわけで、衣替えというおおごとの前に、もっと小さなことから始めてみませんか。
今日の小さな一歩は、3分だけの「一枚えらび」です。
①クローゼットか引き出しを、あけます
②「この夏、いちども袖を通さなかった服」を、一枚だけ手に取ります
③その服に、こころのなかで聞いてみます。「来年の夏も、きみに会いたいかな?」
会いたいなら、堂々と戻してください。それはあなたの彩りの一枚です。
会いたくないかも、と思ったら、紙袋にひとつ入れてみる。
捨てなくてもいいんです。だれかにゆずってもいいし、いったん部屋のすみに置いておくだけでもいい。
たった一枚。それでじゅうぶんです。
「一枚だけ?」と思うかもしれません。
でも、この「一枚だけ」が、だいじなんです。
一気にぜんぶ片づけようとすると、こころが先に疲れて、途中で座り込んでしまう。かつてのぼくが、何度もそうでした。
つみへらしは、筋トレとおなじで、小さく続けるほうが、ずっと遠くまで行けますから。
一枚の服を見送れたあなたは、きっと「いつか」というとらわれを、ひとつ手放せています。
それはもう、りっぱなつみへらしです。
クローゼットの余白は、こころの余白。
あいたスペースには、無理に何かを足さなくてだいじょうぶ。
余白は余白のまま、そっと呼吸をさせてあげてください。
衣替えの前に、こころも軽く。
秋は、もうすぐそこまで来ています。
軽くなったぶんだけ、新しい季節の風が、すっと入ってきますからね。
焦らず、比べず、ためこまず。
今日もまた、自分らしいペースでトコトコ歩いていきましょう。
